會田瑞樹の音楽歳時記

打楽器奏者、會田瑞樹の綴る「現代の」音楽のあれこれ。

祭りのあと〜サントリーサマーフェスティバルに思う〜

 昨晩は部屋中の灯りをつけたまま、泥のように眠ってしまった。図らずも良席を賜り、3時間越えのイベントを目の当たりにし、耳の疲労が極点に達したのだろうと思う。祭りは終わりだ、と記すのが昨夜は精一杯だったが、高熱の悪夢のようなサントリーサマーフェスティバルに対して、所感を書かねばならないと決意した。辛辣になることは必至だが、やはりあまりにも、杜撰で、徒労感に包まれており、一つ一つを、書き残しておくことで、自戒も込めようと思う。もしお付き合い頂ける方がいらっしゃいましたら、お読みいただけたら幸いです。 個人的な事だが、中学生の時に打楽器を始めて、トロンボーンの女の子と口論の末、『打楽器なんて誰でも音が出せるくせに!』と辛くあたられた事があった。彼女はその数ヶ月後にその発言を心から詫びてくれたし、先日も演奏会に娘さんと来てくれた。僕はまさに、彼女の仰る通りだと思うし、打楽器はそれが強みであり、偏見にもなり得る最大の特徴なのではないかと思う。 打楽器の道を志し、師匠佐々木祥先生の指導は一年以上にわたる一つ打ちから始まった。そのレッスンは、最も過酷だったし、今現在も続いているように思う。いくら難曲をさらい、コンサートで弾き続けても、僕は未だに一つ打ちに立ち返り、自分の未熟さを実感しながら生きている。 マルガサリという団体は、昨年僕自身コラボレーションを重ね、2作品を生み出した。半年以上彼らのガムランスタジオに通った。そこで感じたことは本年発表の郡山女子大学紀要にも記したが、前述のような一つ打ちにはじまり、一つ打ちにおわる。という、原点に、回帰するべきではないかということだった。それはガムランという、一見単純に見えて、複雑なレイヤーが絡み合う、あの楽器群の構造美というものを、明瞭にしてほしいということだった。 2018年、僕はインドネシアジョグジャカルタに二週間滞在した。尊敬するガムラン奏者ウェリ・ヘンドラモッコから僕は様々なことを学んだ。彼の演奏のテクニックに僕は舌を巻いた。暗譜は当然のことであり、音のトメハネ、音色、その全てに全集中の意識を重ね、さらにアンサンブルでは他者のサウンドにも耳を傾ける。僅かなズレも許されない。笑顔で教えてくれるが、目は真剣そのもの。どれだけ奥深い世界なのだろうかと途方もない気持ちになった。加えて、一つ一つの楽器の様子、雑音が混ざっていないか、妙なハウリングを起こしていないか。ウェリは一つ一つの出来事に具に対応し、音楽に敬信していた。その姿は神に使える神官のようだった。 その時の滞在で、チョクロワシト作曲のガムランオーケストラのための現代作品《ジャヤマンガギタン》を聞いた。インドネシアの歴史を壮大に描いた音絵巻は、発表直後はガムラン音楽を冒涜していると強い非難に晒されたそうだ。チョクロワシト氏は亡くなられ、つい最近になって作品の真価が認められ、再びの上演となったそうだ。会場では楽譜も配布され今も僕の手元にある。古代から近代に至るインドネシアの歴史を描くその曲には《Sakura》というチャプターがある。インドネシアは八月の中旬を過ぎると、お祭りムードが加速する。独立を祝うためだ。どこからの独立か。改めて考えてみてほしい。 翻って、昨晩のガムラン楽器たちは、やはりそろそろまとまった調律をする時期に来ているのではないかと思った。不手際とも異なる雑音の混入が散見され、音程感についても再考する時が来ているのではないだろうか。素晴らしい楽器たちだからこそ、その真からの響きを聞きたいからこそ、と僕は願うような気持ちでいる。 前述の通り、僕は昨年ガムランのための作品を二作品発表した。難航を極めたし、反省する点もたくさんある。その時のベストを尽くしたつもりだが、やはりいろいろまだ手はあったのではないかと思っている。 昨晩披露された四作品は、それぞれの作曲家の個性、どの方も他の作品も聞いたことはあるし、僕自身も演奏に携わったこともある尊敬すべき方々であり、その魅力は充分に披露されたと思う。それぞれに古典作品への敬意や、寓意を込めたことも具に感じられた。 だが、なぜガムランなのか。 邦楽は?オーケストラは? 僕の理解力が悪いのかもしれないが、プログラムノートを何度読んでも、僕には全くわからない。どうして、ガムランなのか。 そして、そのガムラン楽器を熟知するインドネシア人の奏者が、なぜ一人もいないのか。 ガムラン楽器を使って、エゴイズムを表出するのはあまりにも杜撰ではないのか。逆を考えてみたら、どうだろう。どんな気持ちが、私たちはするのだろう。 この問題は僕自身にも突きつけられているように思う。何度もウェリや様々なインドネシア友の顔が思い出された。

 この主宰者は、企画者は、インドネシアを、なんだと思っているのだろう。彼らが連綿と『繋いで』きた文化を、どのように感じているのだろう。

 僕個人は、ただやるせなく悲しくなった。それが今僕の全身を包んでいる徒労感の正体なのだろう。

 蚊帳の外で祭りの灯火を見つめた時の、寂寥感が身体を伝う。祭りは人を神にするのだ。そしてまた人に帰っていく。現実が始まるのだ。

 

妄言多謝。