會田瑞樹の音楽歳時記

打楽器奏者、會田瑞樹の綴る「現代の」音楽のあれこれ。

第1回かなっく現代音楽講座「會田瑞樹が語る 打楽器音楽の世界」

1.はじめに
 16時になりました。皆様こんにちは、打楽器の會田瑞樹です。本日はお暑い中ご来場誠にありがとうございます。私は普段、打楽器演奏を中心に活動しているのですけれども、本日はトークベースで、演奏ももちろんあるんですけれども、今自分の感じていることや打楽器音楽、現代音楽の歴史等を皆様とともに分かち合って、さらに音楽を楽しく豊かに聞いていただくきっかけとなるような90分ができればと思って、かなっくホールの皆様にご相談いたしまして、このような企画を立てさせていただきました。かなっくホールの皆様、本当にありがとうございます。この企画は第一回と書いてあります通り、もし皆様の反響があれば、二回三回と色々展開していきたいと考えていますので、最初から恐縮ですが、お手元にあるアンケートは、是非皆様の率直なご意見を、こういうことをやってほしい等、是非出していただけますと大変助かります。どうぞよろしくお願いいたします。

 

2.音楽の「目的」

 さて私の演奏会に来たことがあるという方はどのくらいいらっしゃいますかね。(会場の半数が挙手)ありがとうございます、光栄です。音楽が好きですという方はいかがでしょう。(会場のほぼ全員が挙手)ありがとうございます。現代音楽が好きという方は。(1/3の挙手)ありがとうございます。あまり現代音楽が好きじゃないという方は(W先生が挙手)ありがとうございます。

 この暑い夏。皆様、どんな風にお過ごしになられたでしょうか。本当に、今日も九月間近の割にはだいぶ暑い気がするのですけれども、私は作曲もやっておりまして、10月に開催する演奏会の作曲でほとんど八月は蟄居して、ひたすら楽譜を書いておりまして、こんな冊子にもできたのですけれども(まざあぐうすの冊子を示す)北原白秋という詩人がまざあぐうすというイギリスの民謡を初めて日本語に訳したものですから、大正時代の北原白秋が書いたまざあぐうすを改めて現代に置き換えてみたいという思いで作曲いたしました。この作品というのは、10月13日の伝承の調べという演奏会がありまして、歌手の渕田嗣代さんという方と相談して、やろうよ、という話になって言ったわけです。

 ここを考えてみると、新作を演奏するということは、今言った通り、こういう演奏会があって、やろうよという話になって、「目的」がありますよね。今この時点で。「この演奏会のために、やります」というふうに決まって、作曲家は動いたわけです。そしてそれを提出した。その理由の一つとして、渕田さんに頼まれたということ、あるいは、今回の演奏会の編成が、歌、ヴァイオリン、ピアノ、打楽器という4人。あまりそういう作品というものが世界的にみてもそんなに多くはない。しかもそれが公演のメインになるくらいの長さのものでないといけないとなった場合、そしたら作ったほうが早いだろう、という話になってくる。そうすると、じゃあ作りましょう、というふうに話が進んでいきます。

 こういう見方で音楽を捉えるとどうでしょうか。つまり、クラシック演奏会に行くとあたりまえのように、ベートーヴェンの運命です、聞いてくださいと投げられると思うのですが、「なんでこの曲ができたんだろう。」という話になるわけです。どんなクラシック音楽の場合でも必ず何か「目的」があるかもしれない、「理由」があるかもしれない。もちろん作曲家が、自分の鍛錬のためだけに作って、しかもそのまま引き出しに眠って、彼が亡くなった後に発見された、それは例えばシューベルトの未完成交響曲が良い例だと思いますが、彼は実際に楽譜は書いたけれど、生演奏で聴くことはなかったわけです。でも彼は、この音楽を描きたい、という思いで作曲はしていたわけです。でもそれは、後になってから発見されて、こんなに素晴らしい価値のあるものだったんだと、あとの人たちが、付け加えたわけです。それは彼が亡くなったあとの、我々未来の人たちが評価を与えたわけです。

 

3.「現代」を定義する

 翻って、現代音楽というのはまず、「現代」という言葉の定義をしなければいけないのではと考えます。小学館デジタル大事苑によりますと、現代という単語は、「現在の時代、今の世、当世。」現代社会という単語がありますね。もうひとつ気になる文章があります。「歴史上の時代区分のひとつ。普通、日本史では第二次大戦後の時代。世界史では第一次大戦後の時代をさす。」これはかなりの手がかりだと思います。ということは、現代音楽というものは、第一次大戦後だったり、第二次大戦後だったり、二つの大きな世界大戦というものが鍵になっているだろうと読み解くことができます。

 では、そんな時代を皆さんでみてみましょう。第一次大戦は1914年から1918年、第二次大戦は1939年から1945年と歴史上では規定されています。私は今回打楽器奏者なので、今回は打楽器のことをメインにしながらお話しさせていただきたいと思います。

 

4.兵士の物語

 そんな時代に打楽器というものがはじめて、音楽の中で前面に押し出して来た作品というのがイゴール・ストラヴィンスキーの《兵士の物語》という作品なんですね。こちらは1918年の作品になっています。第一次大戦のあおりを受けているわけです。1917年にロシア革命があって、ストラヴィンスキーはロシアの血が入ってますから、土地が没収されてしまいまして、収入も途絶えるし、困窮はするし、さらに、今までに彼はすでに《春の祭典》等は作曲して来ているわけですね。大きな編成のものがなかなか上演できませんよという時代になってしまった。キーワードですよね、「そういう時代」「そういう空気感」があったと。なんとかしなければならない、生きていかなければならないですからね、音楽家だって糊口を凌いでいかないといけない。

「あまり大きくない編成で、演奏効果の高いものを書こう」と彼は考えたと僕は感じます。このような比較的小編成の、八人だったと思うのですが、最後の場面が、打楽器で終わるということになっている楽曲です。ストーリーはここでは割愛しますが、悪魔の行進というところに、効果的に入っています。

 ストラヴィンスキーという作曲家は「目的」という話で、僕は思っていることがあって、《春の祭典》という作品は初演の時に暴動が起きた、いわゆる変拍子が多用されていて、非常に現代的な作品だと有名な作品なんですが、ではどうして生まれたのかと考えたときに、まずこれは踊りのために作っているわけですね、委嘱者がいる。頼んでいる発注者がいて、しかもその発注者はもうこれで3作品め、最初に《火の鳥》そして《ペトルーシュカ》このふたつはうまくいっているわけです。3つめを書いてくださいと、作曲家が言われた場合、やはりひとつめふたつめを、はるかに超えていくものをつくらなければ、作曲家としてもプライドがかかった仕事ですから、やはりどんどん複雑性も追求していくことになる。あるいは、春の祭典の冒頭は、彼は、リトアニアの血が入っているとされている、親戚にリトアニアの人がいたという、その当時はリトアニアという国はロシアやら色々と複雑に国同士が絡み合う時代でしたから、失われた民謡というものを復古させたいという気持ちもあったのではないかと。冒頭にリトアニアの旋律が出てきていたり、私リトアニアとは縁があるんですけれども、「スタルティネス」という彼らの独特の舞曲があるんですけれども、これは完全に変拍子なんですね。変拍子が絡まって踊りが出てくる。おそらく、そういうことも意識しての作曲だったのではないかと。「民族性」というものも現代音楽の中では重要な点になってくると思うんですね。世界が、統合されたりして、無くなってしまう価値のようなものを大事にしたいと作曲家が思って、書く場合があると思います。

 

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 そんなに長くないんですが、パーカッションのみでしたよね。完全に太鼓の音しか聞こえなかった。これがいわゆるパーカッションソロの始まりとされています。こういうふうにして物語の中で打楽器の表現というものの中で大きな意味合いが出て来たのではないかと思うわけです。それから私、現代音楽でひとつおもっていることとしては、やはり「時代」というものが、いわゆる、先ほど「ロシア革命があって困窮して、この曲を書きました」という事実としてある。作風にですね、戦争があったから音楽が暗くなりましたなどということは、ないと思うのです。でも、作曲者自身の生活の上では、何がしかの影響は与えている、例えば我々が、2020年のCovidの問題があって四月から何ヶ月かは家にいましたという、世界中でそういうことがあったと思うのですけれど、それはやはり「間接的」には影響が出てくると思うのです。もちろん直接的ではないのですよ。「だから暗い曲になりました」と説明するのはあまりに単純すぎるし、そういうことではないのですが、間接影響ということだけは、僕は指摘したいなと思います。やはり現代音楽を読み解く際にどうしても世界史的、日本史的なことも念頭に置きながら聴くと、ずいぶんわかりやすくもなるし、あるいはもっと迷ってしあう場合もあるのではないかと思います。その次の例がですね、打楽器奏者の朝吹英一先生についてお話ししたいと思います。

 

5.打楽器の礎を築いた朝吹英一先生

 朝吹英一先生は日本の打楽器奏者の開拓者といっても過言ではない奏者です。彼は、1909年生まれですけれども、幼い頃から卓上木琴を買い与えられて、ご自身で独学で学び、アメリカの教本等は仕入れたりしたみたいですが、教えてくれる先生がいないですから、そうやって勉強していき、頭角を現しました。そして、1927年にNHKのラジオ番組に出演したりして、次第にその名前を知られていくようになるわけです。

 彼のお父さんというのが、朝吹常吉さんという方ですけれども、千代田組の創設者で、初代社長。三越の社長とか、いろいろなものを歴任しているわけです。大変なお金持ちと捉えていいのではないかと思うわけです。つまり、一頃そういう言葉がよく出ましたが、上級国民という言葉が出たことがありますけれども、比較的それは裕福な家庭であったということは、間違いないだろうと思うわけです。つまり生活に余裕があることによって、木琴を習わせる余裕があり、音楽に触れる余裕があったということもまた事実なのではないかと思うわけです。彼が1929年に作曲した《軽井沢の美人》という作品があります。

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 なかなか、可愛らしい作品ですよね。1929年の雰囲気なのかなあと思いつつも、時代的にはいろいろなことがあったのではないかなとも思うのですが、上り調子な時代でもあったと思うのです。更に次は、朝吹先生の作曲した3曲を実演で演奏してみようと思います。1941年にヴィブラフォンという楽器、朝吹英一先生はヴィブラフォンを日本ではじめて輸入した方としても有名です。先ほどの通り、かなりの財力がありますので、アメリカに注文して持って来させることは、可能だったわけです。そういう、財政的な力があったからこそ、まず打楽器が始まったのだということを、歴史として私たちは知っておいたほうがいいと僕は思うし、僕はそれを否定する気もありませんし、そういうふうにして時代が回ったのだなと思うのです。

 そんな彼は、ハワイアンバンド「カルア・カマアイナス」というバンドで…でも、これすごい話ですよね。1940年より…1941年にパールバーバーが起きるじゃないか、こうやって言いだすと、だいぶいろいろ…1940年からやっていて、突然戦争が起きるというか、本当に戦争というものは、突然、色々な意味で非常に恐ろしいことだと思うのですが、この人たちは、つまり、アメリカ音楽が好きだったわけですよね。ハワイアンバンドをやるくらいですから。つまりそういう意志とは全く関係なく戦争に突入したのだなあと、私は歴史を見ていると感じずにはいられません。このハワイアンバンドは、「南陽音楽隊」と名前変えて、活動はしたようなのですけれど、戦争が激しくなって解散してしまったという事実があります。

 ヴィブラフォンというものを彼は愛好して、日本で初めてのヴィブラフォン独奏曲《火華》さらに43年にも奥様に捧げる《水玉》、《風鈴》と三部作と本人も言って来た作品がありまして、是非実演で今から皆様に聞いていただきたいと思います。ピアニストに佐原詩音さんをお迎えいたします。

 

6.芸術の「目的」と歴史の「影響」

 ありがとうございます。朝吹三部作を聞いていただきました。そしてこれは、それぞれ1941年、1943年の作品ということで、これが日本で初演された時の空気感と、この曲の空気感とですね、皆様どうお感じになられたでしょうか。僕は良いとか悪いとかを言っているわけではなくて、打楽器というものが入って来た頃、日本でこういうものを作った。そしてこういう奏者がいたという。朝吹先生が作品を遺してくださったおかげで、そういうこともわかりやすいですし、朝吹先生の評伝には1944年には、いつ赤紙が来るのかと怯えていたということも本人は語っています。それと同時に、この作品の持つ優雅な空気感というのは、生まれ持ったものでもあるし、現代という一側面だなと。ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、宮崎駿監督の『風立ちぬ』とか、あとまた今回の最新作もそういうところがあるなあと。

 果たして戦中期というのは、どういう世界観だったのかということに私は興味がありますし、そういうことが音楽にも色濃く残った部分もあるし、僕自身の意見としてはかなり人それぞれ違いがあるし、立場もあるし、しかも個人的な体験も違うと。やはり現代音楽というのは、個人の時代の産物なんですね。そう考えると、どれを取っても違うわけです。

 ですから、もし、迷ったり、何だろうこの曲はと思った時に、一番まず手がかりになるのは、その作曲家の個人史を紐解くと、比較的わかりやすいのではないかと思うのですね。クラシックというものがなんで似たようなものが多いのか、似たようなものというのは失礼かもしれないのですけれど、先ほどの「目的」という話になりますが、ハイドンとか100番以上交響曲を書いて、どれも素晴らしいのですけれど、ほとんどある種の形式に則って作っているわけですけれども、なぜかと申しますと、貴族に捧げているわけです。あの当時、録音機はありませんので、音楽をかけたいなと思ったら、生演奏一択なわけです。貴族はやはりお金はありますから、毎回新作を書かせるわけです。バッハにも膨大なカンタータがあるわけですけれども、やはりそれも、毎週の日曜礼拝のための音楽なわけです。バッハの有名なエピソードとして月火水で作曲をして、木金で写譜をして、土曜日に合奏稽古をして、日曜日に本番みたいな生活をやっていたと聞きます。バッハは息子さんがたくさんいるのですけれども、手分けして楽譜を写譜したのではないかという研究者もいますし、このようにどこか「目的」があって音楽ができているという、感覚で音楽を捉えると、わかりやすい面も出て来るのではないかと思います。

 では自分は芸術家です、と叫び出した人はやはりベートーヴェンじゃないかと、僕は思うわけです。ベートーヴェンは最初、貴族の世界にいたわけですが、有名な三番の英雄交響曲という、もともとナポレオンに捧げたけれども、ナポレオンが皇帝になったから、あいつは貴族と何も変わらないのだ、という、その言葉を思うと、つまり彼は期待していたわけです。ナポレオンに。貴族社会を変えてくれるのではないかという。これもまた、「間接的」に歴史がその作曲家になにか影響を及ぼしている。だからといって、彼の作品が変わったかというわけではないけれども、どこかしこにその人に影響を与えている、これが歴史なのではないかと思うわけです。音楽と歴史は切っても切り離せない関係にあると、僕は考えます。そしてそれを少し意識するだけで、ちょっとわかりにくいなと思っていた音楽も、この人はこういう狙いがあったらしい、こういう場所で、こういう人から委嘱を受けたりして、この場のために音楽を作らなければならないんだと。そうなったら、なるほど。と簡単に解決してしまうこともあるのではないかと思うわけです。

 

7.打楽器音楽の発展「騒音を舞台にあげる」

 ここからは打楽器に特化した話にしたいと思います。

 先ほど兵士の物語の中で打楽器が全面に押し出されたというわけですが、打楽器だけが全面に押し出された作品の最初期のものとしてあげられるのが、エドガーヴァレーズのイオニザシオンということになります。

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 このような作品で、現代音楽講座だなという空気感になって来たわけですが、この曲の特徴というのは、最後にピアノやチャイムが出て来るわけですが、旋律というものを全く作らず、リズムの音高と動きだけで、しかしかなり対位的になっていて、噛み合っている部分がある。よって音楽として成立していると思うのですが、初演当初は「なんだこれは」と騒ぎになった作品でもあり、またウーッという音が聞こえたと思うのですが、サイレンを2台取り入れています。このように、「騒音」を取り入れる、「騒音」だとされていたものを舞台に持ち込むということが、打楽器音楽の歩みとして重要な点になってきます。いわゆる「雑音」「騒音」でしょと、舞台に上げちゃいけないよという音を、上げるわけです。それはある種、抵抗運動にも近いものがあるのですけれど、美しく整った和音や旋律でという世界じゃないのだという、価値観を変えていきたい、あるいは今まで聞いたことのないような音楽を作りたい。という意志と打楽器音楽は相性が良かった。現代の作曲家は打楽器を使うことをかなり好ましく思っています。相当みなさん使ってくださる。それが諸刃の剣にもなっている部分もあるのですけれど、それによって打楽器音楽は発展を始めました。

 

8.打楽器音楽の発展「民族性」

 一方、騒音を取り入れることと対比的な打楽器アンサンブルの世界としてあげたいのが、カルロス・チャベスの《トッカータ》という作品なのですが、1942年、先ほどの《火華》のあたりの時代の曲と思っていただけたら良いのですが。

 もう一つ、打楽器に託された表現として「民族性」というものが挙げられると思います。打楽器というものは、アフリカで太鼓だったり、インドネシアガムランだったり、民族楽器と打楽器は親密な関係にあるわけです。そういうものを取り入れて、舞台に上げたいという意志だったり、衰退している、滅びゆく文化を取り上げたい、残しておきたいという作曲家の意志が、特にこのトッカータには反映されていると思います。理由の一つとして「インディアンドラム」と楽譜に書かれていまして、こちら何を使えばいいんだというのは演奏団体によってまちまちではなってしまうのですが、ここに「インディアン」という言葉を使っていることで、メキシコ生まれのチャベスの中で、民族性を刻印しておきたいという願いがあるのではないかと僕は感じるところがあります。

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9.打楽器音楽の発展「技術革新」

 このような形でリズムが集積していく作品なのですが、中心的になっている楽器にティンパニが上げられますが、ティンパニという楽器は打楽器ので中でも特に古い楽器で、モーツァルトハイドンベートーヴェンも使っているし、ベートーヴェンは目立つパッセージも作っているのですけれども、彼らの時代のティンパニというのは、一度音程が決まったら変えられない、音程を変えるのにものすごく時間がかかる。そういう楽器としての機構が整っていなかった。吟遊詩人たちが使っているような楽器の域を出ないくらい、まだまだ粗野なものだった。20世紀に入って技術革新があって、安定した音程でティンパニがなるようになったことが、その当時いきていた作曲家もティンパニが自分の狙った通りの音程を出してくれるということがわかったので、取り入れてみようか、目立たせて使ってみようかという、新しいものを取り入れたい、ということを作曲家は好みますので、現代音楽のキーワードとして、新しさというもの、しかもその時代の新しさを、1940年であればその時代の新しさを、先ほどの1941年のヴィブラフォン作品にしても、1920年代にアメリカで開発された楽器ですから、開発されて20年くらいでこういう作品が生まれていく。こういう、新しさを取り入れていきたいという期待に応えたのが打楽器なのではないかと私は思います。しかも技術が革新されて作曲家が狙った音を出せるようになったことは重要だと思います。作曲家はやはり自分が思った音を出して欲しいと願いますし、それが楽器ごとに音程が違うとか、構造が違うのでなりませんとか、じゃあ譜面に描けないじゃないか、という話になってしまう。それであれば、即興でいいわけです。わざわざ楽譜に書く必要がないわけです。バロック時代にももちろん打楽器はあったのですが、古代遺跡からも出て来るのですが、なんで楽譜がないのかといえば、即興でつけておいてと、言ってしまっていた可能性もあると僕は思うのですね。わざわざ書くほどのことじゃない、というところから、作曲家が狙った音が出せるようになって来たということで、楽譜に書こうかなと彼らは思うようになったのでないか。それが打楽器音楽の発展の寄与につながっていったのでないかと考えます。

 

10.打楽器音楽の発展「調律」

 鍵盤打楽器についても、ドビュッシーマーラーなどが使っているわけですが、19世紀後半、20世紀に入ってからですがやはりまだ、音程の優れない楽器が多かった。音程感を調整しようという方が現れます。その人をジョン・カルホーン・ディーガンというアメリカ人なんですが、彼はもともとクラリネット奏者で、グロッケンの音程が悪いと彼は感じたそうなのです。そこで、ひとついいものを作れれば一儲けできると思ったのか、技術的なものを学び、かなり耳が良かったので独自の調律法を編み出し、音程感の優れたグロッケンシュピールを生み出します。それがDeagan社という会社の誕生で、アメリカシカゴに大きなディーガンタワーという工場を作りまして、アメリカ一の楽器会社だと喧伝して歩きます。1916年ごろに、アメリカが上り調子だった頃に、自分たちが世界を引っ張るのだという気概のもと、Degan社は将来を嘱望されていたパーシー・グレインジャーという作曲家にDeagan社の楽器を使った新作を要請します。

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 こうやって聞いていきますと、ユニゾン、一緒に弾くというのが多いのですが、「この楽器は音程がいい」ということをアピールしているかのような感じがあります。こんな凄いものを作ったという、宣伝音楽にもなっているように思えます。楽譜にもある通り、Deaganと、楽器会社の名前を楽譜に書いているというのはなかなか珍しいですよね。必ずスタインウェイを使うようになんて、ピアノの曲には書かないわけですけれど。打楽器の黎明期の頃は、自分たちの楽器を!と書いていた時期もあったようです。そのような歩みを感じる上でも重要だと思います。

 

11.打楽器音楽の発展「奏者の登場と委嘱、自作自演」

 調律も良くなり、音楽的にも豊かになってまいりますと、自分もこの楽器をやってみたいという人たちが集まって来るようになります。演奏したいとなる。そしてぶつかるのが、「曲がない」という現実になります。

 打楽器が目立って来るのは、ベートーヴェンの第九のティンパニが目立っているとは言っても、あくまでオーケストラの中でのティンパニですので、自分が「独奏者」として、この楽器の魅力を伝えたいと思っても、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲を編曲して、木琴で弾くか、鉄琴で弾くかというくらいのことしかできないわけです。音程が優れていても、曲がないということになる。それは歴史が、ヴァイオリンやピアノと比べると、全く浅いものなので、ではどうしようとなる。

 打楽器奏者は、活動の中心に新作委嘱というものを多くしています。それは私もですが、まさにお家芸と言っても過言ではないほど、委嘱をするのですが、かなり昔から、打楽器奏者は委嘱活動をしておりまして、代表的なものをいくつか取り上げたいと思います。特に、大編成のもの、協奏曲。先ほどの朝吹先生の《軽井沢の美人》もそうでしたがバックがオーケストラでしたよね。オーケストラと一緒に演奏するということはある種のステータスでもある。そして「この楽器ってすごいんだ。こんなことができます!」という宣言にもなるわけです。昔から協奏曲というものは、オーケストラの中に、異物が入る、でもその中で、こんなに凄いことができるんだ。というアピールする場面でもあります。またモーツァルトベートーヴェンは自分で協奏曲を初演していますので、自分は書けるし弾ける、自分自身の音楽性の発露で協奏曲を作ったりしています。それに、打楽器奏者も憧れるわけです。こんなに面白いことができる、そのことを多くの方々に伝えたいと思って委嘱をするわけです。

 

 ダリウス・ミヨーの打楽器協奏曲は、まさに打楽器の協奏曲の最初期のものですが、1929年の作品。軽井沢の美人と同じ頃の作品になります。それを考えると日本の打楽器奏者達もいろいろ意識して動いていたのでないかと考えます。

 ミヨー自らの言葉をここでご紹介いたします。この文章がなかなか面白いのです。

I have always been very interested in percussion problems. In the Choéphores and in L’homme et son désir I used massive percussion. Is it the research done by Berlioz in this field that led me in that direction? Maybe! After the audition of Choéphores in Brussels, an excellent kettledrummer, Theo Coutelier, who had a percussion class in Schaerbeek near Brussels, asked me if I would like to write a concerto for only one percussion performer. He wished to use his piece for his examinations. The idea appealed to me, and this is how I came to compose the concerto. The school at Schaerbeek had only a few orchestral musicians: two flutes, two clarinets, one trumpet, one trombone and strings. The concerto consists of two parts connected together. It is a dramatic work. In view of the fact that when I composed it (between 1929 and 1930 in Paris), jazz was enjoying a decisive influence on musical composition. I wanted to avoid at any cost the thought that anyone might think in that kind of work, and so I therefore stressed the rough and dramatic part of the piece. This was also why I did not write a cadence and always refused that anyone adds one on.

The debut of the Concerto was given under my direction by Theo Coutelier, at the Palais des Beaux-Arts, in Brussels, in 1930. I will add that I am always pleasantly surprised to see that this concerto is often performed in high schools in the United States by young students who play by heart and brilliantly.                  

Darius Milhaud/Universal Edition homepage

 ベルギーの打楽器奏者テオからの委嘱、しかも彼は学生だったわけです。打楽器科の一学生がミヨーに曲を書いてくれという、驚くべき話です。ミヨーはフランス六人組の一人としてフランス近代を代表する作曲家で、ブラジル音楽からの影響も受けています。テオの委嘱を受け、しかも面白いことに音大のオーケストラの編成が変則的という独特なものです。まさに最初の「目的」という言葉にも当てはまります。「この場でやりたいから書いて欲しい」というふうに言われたわけです。ミヨーはその情熱に動かされ、この協奏曲が誕生しました。印象的なタンバリンやカスタネット、こういうものが入ることによって、民族色、打楽器の本来持っているオリジンを表出している意図も感じられます。また激しいリズムの律動と神秘的な静謐さ、その両者が表出できることも示唆した作品になっています。

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 ミヨーはもうひとつ打楽器の作品を依頼されます。約20年後、ジャック・コナーという奏者から委嘱を受けます。この時点でミヨーはアメリカに亡命しています。その際に、マリンバヴィブラフォンのための作品を依頼されます。当初ミヨーは懐疑的でした。マリンバヴィブラフォンの存在は知っているけれども、ソロ楽器として活躍できるほど表現できるのかといぶかしんだようですが、委嘱者は懇切丁寧に楽器の解説を行い懇願し、この作品が誕生。ヴィブラフォンも協奏曲楽器として押し出された初めてのケースになります。

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 非常に古典的な作品で、最初にオーケストラが主題を奏で、それに呼応するように独奏楽器が弾きます。聴きやすい作品ですが、なぜかミヨーはこの曲のピアノ版も作っています。少しこの作品はピアニスティックであるとも指摘できます。よって、最近の奏者がこの作品を取り上げることはあまり多くなく、僕自身も弾いたことはあるのですが、演奏機会があまり多くない作品です。語弊を恐れずに言えば少し地味なところがあり、奏者としてはもっとわかりやすく技巧を見せたいと思わせてしまうところもあります。

 もっとこういうことをしたいという打楽器奏者の欲求は作曲活動にもつながっていきます。こんなこともできるのだという作品を数多く作曲していきます。クレアオマーマッサーもその一人です。

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 短いながらマリンバの音の密度も高く、技巧的な面を求められ、奏者が感じる打楽器観を全面に押し出しています。またマッサーは1941年、ヴィブラフォンのための曲集を4冊発表しています。これは無伴奏ヴィブラフォンの作品としては最初期のものと考えることができます。僕自身がヴィブラフォンを中心に活動しておりますが、独奏楽器としての最初の一ページなのかと感じることができます。

 

12.おわりに 

 ここまで打楽器音楽を現代の音楽と対比させながら見てまいりました。さらに打楽器、そして現代音楽は発展していくのではないかと感じます。長丁場になってしまいましたが本日は誠にありがとうございます。また皆様にお目にかかれますことを楽しみにしております。