會田瑞樹の音楽歳時記

打楽器奏者、會田瑞樹の綴る「現代の」音楽のあれこれ。

西耕一さんのこと

 2010年12月、競楽Ⅸ本選会。プログラム最後に演奏を終えて、真っ先に声をかけて来た方が西耕一さんだった。その後いただいたはじめてメールにはこんなことが書いてあった。
「…現代作品を演奏する打楽器奏者は多いですが、會田さんは一味違った選曲をしてくれそうで、期待しております。(中略) 會田さんの、まるで松村先生が憑依したような演奏は完全に会場を虜にしていました。(後略)」  

               「憑依型」

 西さんは開口一番僕にそう言ったのだった。そしてその場にいた聞きに来ていた友人と僕の母はどっと、笑い出した。母に言わせると、西さんのあの一言でなんだか彼をいっぺんに信じ切ってしまった、と笑う。  

 当時西さんは音楽現代(現代芸術社刊)に音楽評論を寄稿し、都内の何らかの演奏会に行けばお目にかかることができた。何度か立ち話やメールをしているうちに、日本現代音楽の振興と埋もれた作品に再び光をあてることを強く希求されていて、そのビジョンは僕と一致していた。吹奏楽による「奏楽堂の響き」シリーズプロデュースも手がけて、様々な日本の作品を蘇演、委嘱も幅広く、細身の身体でよくこれだけの大事業を成し遂げているものだと僕は感心しきりだった。そんな西さんに翌年サントリーホールで開催した僕の初めての企画公演、レインボウ21「打楽器音楽、その創造と継承」にもご来場いただき、後日じっくりと総評いただいた。また現在も熱くお付き合いが続くWINDS CAFE主宰の川村龍俊氏をご紹介くださり、年に一度のWINDS CAFE公演は互いの主戦場の一つとなっている。2012年開催の「八村義夫の世界」や第一回目となるヴィブラフォンリサイタルも企画段階から相談に乗ってくださった。当時会場にいらした楢崎洋子先生からのメールにはこんな一文が残っている。「西耕一さんは強力な協力者ではないですか。」

 
 2012年の八村企画を終えた頃に、「ラウダやるぞ。」と突然のメール。夢にまで見た伊福部昭作曲《ラウダ・コンチェルタータ》をピアノ伴奏版で復活させるという。今でこそ譜面の入手は容易いけれど、当時は出版社や日本近代音楽館へ問い合わせて散逸した資料をつなぎ合わせた。その一つ一つの作業が今となっては僕の糧だ。そうして稽古を積み、西さん企画による2013年伊福部昭生誕99年白寿コンサートを敢行。杉並公会堂から人が溢れるほどにお客様が詰めかけ熱狂の渦の中での演奏会だった。この白熱のライヴ公演のディスク(3SCD-0014)が僕の実質のデビューアルバムでもある。休む間も無く同年八月には松村禎三先生の業績を讃えるアプサラス第4回演奏会で松村先生の遺した子どものための作品を一堂に会した演奏会(3SCD-0020)、九月にはオーケストラ・トリプティーク第二回演奏会「日本の弦楽オーケストラ傑作集」(3SCD-0017)を手がけ、鹿野草平作曲《ヴィブラフォン、金属打楽器と絃楽のための協奏曲》で僕は人生初めてのソリストデビューを果たした。以上全ては西さんのプロデュースによるものだった。終演後西さんは「會田をソリストデビューさせることが目標だった。これで俺の役目は終わったのだ。」と上機嫌に、でも少し寂しそうに語ったのをよく覚えている。
 

 この公演を境に、僕と西さんはそれぞれの主戦場に赴くこととなった。当時の僕は留学を考えないわけでもなかった。ソリストデビューのあとは悩みに悩んだ一年を過ごした。それは六年間の学部と修士課程を終える刹那的な時間でもあった。一方の西さんは前述のオーケストラ・トリプティークのさらなる拡張を目指し、団長の伊藤美香さんと共に奔走していた。その姿は羨ましくもあり、同時に励みになった。これだけのことを成し遂げていくエネルギーは一体どこから来るのだろうと思った。そしてそれを、どんな形であれ見続けていたいという興味が尽きることはなかった。  
 僕は自然と日本での演奏活動を決意し、2014年4月からフリーランスとしての歩みをスタートさせたのだった。以降の小生の活動はプロフィール欄を参照してほしい。  

  時は経ち2020年春。世界が大きく揺れ動く中で西さんに連絡をした。「新しい、4枚目のアルバムは西さんとやりたいです。」西さんが「憑依型の演奏」と僕を評してから10年の月日が経とうとしていた時だった。

會田瑞樹ヴィブラフォンソロリサイタル2020 いつか聞いたうたのチケット情報(2020/11/2(月)) - イープラス