會田瑞樹の音楽歳時記

打楽器奏者、會田瑞樹の綴る「現代の」音楽のあれこれ。

作って曲げて

演奏家が作曲をするなど、論外。」  

 切り捨てるように言い放たれただけに、その壁は厚かった。 しかし、僕の過去を振り返れば奏者としてよりも作曲で世に出たのが最初だったのかもしれなかった。

 
 中学三年、吹奏楽部を引退し受験勉強に精を出す時期に後輩から年の暮れの打楽器アンサンブルでコンクールに出たいけれど曲がないと相談を受けた。当時打楽器のための曲はリズム練習の教則本の延長にあるもの、もしくは制限時間4分に見合わない本格的な作品に溢れていた。半ば冗談に「じゃあ、僕が書いてみようか笑」と言ったと思う。
 受験から現実逃避をしたかったし、なにより音楽をしたかった。塾の授業中、後方の席を陣取って譜面を書いた。ある時教師にそれが見つかったが、その反応は意外なものだった。「お前、こんなこともするのか。」その曲は《星の流れは大地を目指す》と銘打ち、後輩たちや顧問に見せた。失笑のうちに葬り去られることを想像したがまたしてもその反応は意外なもので、12月の大会で初演が決まった。こうなるとリハーサルの立会いが必要だ。2回ほどリハーサルに立ち会って、数小節をカット、そのほかは自分の想像通りの音楽でありその演奏に感謝の思いが尽きなかった。  
 当時の仙台は今よりもずっと寒く、しかも市内から少し離れた会場での大会に電車を乗り継ぎこっそりと顔を出す。打楽器アンサンブルの部門は恐ろしく早朝で、開始と同時に自作の順番となった。塾の机で書いた音符たちが空間に解き放たれる。曲が終わったあと、ただただ ”笑い” が止まらなかった。演奏の良さがあって銀賞を得て後輩たちは喜んでいたが、僕にとって音楽とはなんなのか自分自身がどうありたいのかをあらためて考える契機となった。その上、結果に味をしめた顧問が高校に進学した僕にその後も二曲作曲するように要請があり、そこで作曲したものは笑いを超えて鬱屈したものとなった。高一時代は《失われた記憶を求めて》高二時代は《涙の回廊》…いささか幼稚症的なこのタイトルはその当時の自分の気持ちを表すには十分だった。どちらの初演にも立ち会ったが、とりわけ《涙の回廊》の初演は印象深い。演奏者への強い敬意とともに、「ああ、僕には才能はない。」とはっきり確信したことを今でも覚えている。その日から、自作を公にすることを取りやめてしまった。    

 同時期に僕は安倍圭子先生の熱狂的なマリンバプレイに強い衝撃を受けた。さらにいくつかの安倍先生の自作曲を自分自身もソロコンテストで演奏して演奏家として励んでいこうと決意を新たにしていた。思えば、大学入試の曲、Siegfried Finkのスネアドラム組曲もまた、Fink自身が打楽器奏者であり、その他の課題もその全てが打楽器奏者の作曲によるものだった。  
 

 驚くべき自己矛盾!しかし、これこそ打楽器音楽のはらむ最悪な問題点だ。  

 

 大学に進学し、僕はそれら奏者の曲をもっと演奏できたらと思うウブな学生だった。その言葉に強く反論してくれたのは、ほかならぬヴァイオリンやピアノの同級生たちだった。しかも、彼女たちは、ベートーヴェンプロコフィエフショパンラヴェル…その圧倒的な作品の力を僕に見せつけたのだった。正直に、恥ずかしくなった。僕は何をしているんだ。まやかしにだまされているのではないか。こんなことではヴァイオリンやピアノが持つ、長い伝統や歴史に追いつくことすらできないのではないか… 絶望的な気持ちの中で、学校図書館にある打楽器が関わる様々な作品を聞き漁った。中には作曲家が書いているとありながら、より絶望的な時間を過ごす音源も少なくはなかった。しかし、とにかく、聞いた。そして、ある昼下がりに、《星辰譜》と銘打たれた、八村義夫作曲、という作品に出会った…  

 そして僕は八村氏を通してその周辺の、末吉保雄先生をはじめとする多くの日本の作品群に出会うのだけれど、同時並行にもいくつかのおそるべき作品に出会い続けた。
 サントリーサマーフェスティバル2011でのシュニトケ《グラス・ハーモニカ》日本初演。前衛とされる思考、新古典主義的技法が遭遇する。それは石井眞木の日本太鼓とオーケストラのための《モノ・プリズム》に見られる両者が共存・対立するさまとよく似ていた。しかし、シュニトケのそれはさらに徹底していた。アニメーションとの融合がさらに強い意味合いをもたらすのだ。  
 ショパン《バラード4番》彼は自らも演奏家。しかしこれほどまでにピアノを極限まで発揮する音楽は今後も生まれないのではないかと思う。  
 ベートーヴェンピアノソナタ第30番》《ピアノソナタ第31番》円熟期にこの音を紡ぐベートーヴェンの芯の強さ。そして堅牢なフーガや変奏に涙を禁じ得なかった。  
 アンドリュー・ロイドウェバー《ジーザスクライスト・スーパースター》《エヴィータロックオペラというスタイル自体が西洋音楽の長い歴史に対しての強いアンチであり、その技法がクラシック的な美観と、ロックの対比、あるいは音列技法との対比だったりする。  

 “作曲をするなど、論外。” その牢獄の鍵を最後に木っ端微塵にしたのは、2018年1月国際交流基金の事業で知り合ったインドネシアの音楽家Welly,Arief,Gigihとの出会いだった。Wellyはインドネシアの伝統的ガムラン奏者であり、伝統を超える新しいガムラン音楽を紡ごうと努めている。Ariefはドラマトゥルグを手がける打楽器奏者、Gigihは坂本龍一の影響をモロに受けた作曲家・ピアニストであった。僕はこのいろいろと”強烈”な三人とたくさんの酒を酌み交わす中で、石井眞木の提唱した「遭遇」とはこういうことなのかもしれないと痛感した。それは湧き上がる表現なのだ。限りある人生の中で、表現することをやめてはいけないのだ。さらにその時のコーディネーターであった野村誠さんのマスタークラスでインドネシアの作曲家Slamet Abdul Sjukur (スラマット・アブドゥル・シュクール、1935〜2015)の言葉を得たことが強い啓示となった。”MiniMax”…最小限の中で最大限の表現を展開する。これは八村義夫末吉保雄が提唱していたミクロとマクロの交錯に他ならないのではないかと。  
 2018年3月、そんな話を末吉先生とお酒を飲みながら語り合った。「そのうち、あなただって、書き始めますよ。」一年以上経った今、その言葉だけが今もここに遺っている。  

 2018年7月にはインドネシアでの公演が迫っていた。文化も、考えた方も超えた編成の中で音楽を一緒にやるにはどうすれば良いのだろう。その時、五線紙はいつものように真っ白なキャンバスであり、その深い懐に向き合っていった。
 《Kampai-Divertimento》…それは僕にとってもう一度、自分を奮い立たせる乾杯の号砲だった。そしてこれから、また想像もしない旅路が待っている。あの時も、今も変わらないことは、音楽という果てしない道に、永遠に向き合う、その覚悟のみである。


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