このところ様々な機関誌に寄稿を依頼されるようになった。かつて小説家を志していたこともあったので、願ったり叶ったりでもあるのだけれど大体聞かれる質問は同じ事も多く、その度関心を頂かれている部分はそんなところにあるのかなと思ったりする。おそらく、一番多いのは「なぜ、たくさんの新作委嘱を手がけるのですか?」だと思う。いろいろな思いが重なり合っての行動なのでいつも一概には説明出来ない。でも、本稿で書くなら僕はこの答えを出す。
「セヴラックにも、打楽器独奏のための作品を書いてほしかったから。」と。
もし彼が3オクターヴのヴィブラフォンという楽器に出会っていたなら、《休暇の日々、ヴィブラフォンと》なんて組曲が、あるいはマルチ・パーカッションの妙技に触れていたら南仏の舞踊のリズムをモチーフにした小曲だって出来上がったかもしれない。打楽器の限りない魅力を多くの方に知って頂くためには、作曲家とのコミュニケーションが何より大切だと思うからなのだ。そうやって末吉保雄先生には何曲もお願いして、《スネアドラムのためのエチュード》をフランスの二つの都市で演奏出来た事、そして日本で演奏したときとはまた違ったお客様の強い熱気を得た事が、僕にとっても大きな励みとなっている。
そして2017年のリサイタルでの委嘱作曲家には間宮芳生先生をお迎えする事が出来た。これは僕にとって悲願の一つであった。吹奏楽の作品で中学生の頃からそのお名前を知り、どの作曲家にもない音の手触り、そして市井の人々の持つ「叫び」を楽譜にたぐり寄せて行く姿勢に共鳴していた。
悲しい事だけれど、文化とは守ろうとしなければ消滅することを最近痛感している。人が死ぬ事で、その人にある記憶や知識は手の届かないところに飛んで行ってしまう。だから、人はなんとか紙に記したり、若い世代にその思いを託そうとしてくれる。
「ちょっと手伝ってくれない?」末吉保雄先生からのある日の電話。セヴラックという名前を僕は知らなかった。手始めにYouTubeで探してみよう、いくつかのピアノ曲がある、それならばこれか。《ポンパドール夫人のスタンス》… この感じ、とても好きだ。次、《凛浴する乙女たち》なんて凄い曲なんだろう…風が吹いてきて、その風がどこまでも突き抜けて行くような感じだ…
ある日突然、自分の知らなかった世界が見える事はとても麗しいことだ。僕はそれこそ、生まれてきたからこその喜びだと思う。
そんな中で得た《風車の心》の演奏機会、そしてサンフェリックス=ロラゲへの訪問。僕たちは風車を見る事は出来なかった。セヴラックも分かっていたのではないか。「風車」とは、滅び行く文化のひとつであることを。
《風車の心》の歌詞や、登場人物を見ていると僕はなにかと重なり合うところがあった。それは、僕の父の生家である山形の小さな村。ここには、田んぼと山しかない。かつて、野菜を育て家畜もたくさんいたこの村は、今僅かばかりのお年寄りと、ピエールみたいに馬鹿正直に人の良い、そんな人しかここにはいない。
ジャックは出て行かなければならなかった。都会生活に浸ったものは、この滅び行く村の、破壊の原因にもなりかねない。知る必要のない事は死ぬまで知らなくて良い。粉屋の老人の悲痛な叫びを思い返す。「合唱」の存在も劇中では大きいようにも思える。ジャックの幼少期の思い出が形になる。
そして「pour toujours」すなわち「永遠に。」ジャックは去る。そして、「死」を臭わせる旋律。しかし本当に「死」を迎えるのはこの村そのものではないか。滅び行くものへの惜別の哀歌ではないか?僕がトライアングルを鳴らし、村人たちが出てきたあの場面の合唱は以下の通り。
「恵みをもたらす黄金の秋の風と光に幸いあれ。ああ、あなたの大きな善行は続く。ああ、旅人よ。それは石の色、それは花の香り。」(會田意訳)
むき出しになった鋭利な機械と、大きな樽。寂しそうに置かれたワイン瓶にはびっしりと埃が堆積していた。かつてここでワインを作り、そして労働にいそしんだ人々はどこへ向かって行ったのだろう。
文化とは、守る事をしなければ滅び、消えて行く運命にある。
「他」を知る事を拒絶し、自らだけを守ろうとしたとき人間は卑小になる。
多様性を寛容しない社会になる事だけは、避けなければならない。
「セヴラック通信第22号2017前期 日本セヴラック協会会報」(発行:日本セヴラック協会)より転載