會田瑞樹の音楽歳時記

打楽器奏者、會田瑞樹の綴る「現代の」音楽のあれこれ。

私的なオザケンの思い出

 数年前、ビートボクサーの大会『音霊感覚』の審査に招かれたときの事だった。いくつかの楽節の後に、突然刹那的な旋律が聞こえてきた。
          “ダンス・フロアーに、華やかな光...”
 僕はそれだけで、いっぺんに信じきってしまった。懐かしい音楽だと思った。僕の血液の中にこの旋律は確かにあって、それは肉感的に迫るものだと思った。けれど、この曲が誰の音楽だったか、どうしても思い出せなかった。

 今年、鮮烈的に小沢健二がカムバックした。僕自身も驚いた。特に、2月という荒涼としたその時期を選ぶのがオザケンらしいと思った。朝日新聞には大々的に広告も打たれたという情報を得て、その音楽がどんなものか気になって仕方なかった。

 オザケンの音楽を手元に置いたのは、小学生のときだった。
 8cmのシングルCDで、《大人になれば》という歌。
 ジャラ銭の小遣いを集めてこれがほしいと言った時、同伴していた親父が「お前はオザケン聴くんだ。」と言った事をぼんやり覚えている。
 ピアノトリオの編成で描かれる、大人になったらこんな自分でいたいという願望のような、諦観のような音楽を小学生の僕がどうして好んだのか。未だに自分自身も実感がない。でも、この歳になって改めてこの音楽を聴くと、結局僕はなにも変わっていないんだなということを実感する。背伸びしながら、ブルースを聴くのは小学生の僕も、打楽器奏者の僕も変わりがない。
 恐れ多い話だけど、オザケンもきっと背伸びしながら表現していったのに違いない。だから、心のひだに妙に引っかかる。

 何十年も経って、オザケンの新曲《流動体について》を手に取った僕。確かに、「夢で見たような、大人」にはなったのかもしれないね。「間違いに気がつく事」は確かに、数年前にはあったよ。けれど、「宇宙の中で良い事を決意する」自分にはまだなれていないのかな。そして、彼が《今夜はブギーバック》を紡いだ音楽家であることに僕は気がつく。《大人になれば》と、小学生の僕に夢を問いかけた彼と何も変わりはなかった。たぶん、それが流動体なんだろうな、と思ったりした。