會田瑞樹の音楽歳時記

打楽器奏者、會田瑞樹の綴る「現代の」音楽のあれこれ。

末吉保雄先生を偲んで

 以下は2016年3月24日に開催された「末吉保雄作品個展 ー内に秘めたる声を求めてー」パンフレットに掲載された末吉保雄先生と會田瑞樹の対談記事です。在りし日の末吉保雄先生を偲んで、ここに再掲させていただきます。

 2018年8月20日に逝去された末吉保雄先生のご冥福をお祈りいたします。
 そして末吉保雄先生の音楽を、これからも演奏してまいります。

                           2018.8.24 會田瑞樹

 

対談             

末吉保雄×會田瑞樹

 

☆ 出会い                   

 末吉保雄先生との出会いは、マリンバソロのための作品《Mirage pour Marimba》(マリンバのためのミラージュ)を聞いたことに始まる。その鮮烈な衝撃をマリンバの師匠である神谷百子先生にお伝えすると「だったらお会いしてみれば良いじゃない」と言われ、神谷先生は末吉先生の連絡先を教えてくださった。お手紙で作品の感想とミラージュを演奏することを添えて投函した。お返事はこないまま、ある演奏会の終演後、お客様のお見送りをしたりしていたら、急に肩を叩かれた。

 

「どうも、末吉です。」

 

 驚いて声も出なかった。あの鮮烈な音楽を書いた末吉保雄先生が目の前にいる。ドキドキしてしまって、僕は御礼と拙い自分の演奏を詫びるばかりだった。末吉先生は直筆のサインが入った楽譜を僕にくれ、夢のような時間を過ごした。今思い返してみても、末吉先生とこうして飲み交わすようになったことが、やはり今でも夢の続きなのではないかと思う事さえある。その後末吉先生との音楽の時間は、僕が2010年に日本現代音楽協会主催のコンクールに入賞してからより一層深まる事となった。2013年ヴィブラフォン独奏のための《西へ》の初演を皮切りに、末吉先生がプロデュースしたコンセールCでの演奏会での共演、日本セヴラック協会主催のオペラ《風車の心》の日本初演など、幅広い音楽の時間を共に歩んでいる。

 

☆ スランプから《翔ぶ》            

 末吉先生の作風は固有の楽器法にあると思う。笛、太鼓、声の3点にこだわって音色を切り詰めていく。そんな作風に辿り着くまでにどんな試行錯誤があったのだろうか。東京芸術大学在学中に行われた「昭和33年芸術祭」のパンフレットを見せて頂いた。末吉先生の発表した作品は《インヴェンション》という作品。12音技法を用いた習作的なものだったと言う。この日の作品発表コンサートは他にも、水野修孝、八村義夫小杉武久、佐藤眞各氏と言った錚々たる顔ぶれが名を連ねている。

 その後も当時最先端の書法を駆使した作品で毎日音楽コンクール第2位、軽井沢国際音楽祭入選、NHK教育番組の音楽作曲やプロデュースと多方面に活躍していた末吉先生。話は大学卒業頃に直面した、スランプの経験に始まる。

 

「言葉に対して自分の音楽を付ける方法を見失ってしまったんです。だから音楽の基礎から全部勉強し直そうと思って伴奏稼業に徹した時期に入りました。いろんな楽器、特に歌ものやドビュッシーなどをさんざん弾いて少しずつ手と耳で覚えていろいろな事を考え直していきました。」

 

 スランプを脱出した作品のひとつである《翔ぶ》という作品は、当時結成した作曲家集団「環」の第一回演奏会でも演奏された。「環」第一回演奏会のパンフレット巻頭にはこのような文章が載せられている。(以下原文ママ

 

「(前略)作曲家は徒党を組むべきではないとお考えの方もございましょう。確かに一理ある事に違いありますまいが、現在私共は「作曲家はだまつて曲を書いていれば自から音になる機会が訪れる」という状況からははるかに遠いとろこにあるのではありますまいか。「一人づつではあまりに微力な私共もともかくこれだけ集まれば皆様方に私共の作曲を聴いていただける場を確保できようではないか」私共の集りはそんなお互いの力をあわせることを第一のよりどころとしております。(後略)」

 

 血気盛んな若いエネルギーがここには充満していたに違いない。そして昨今も結成される作曲家や演奏家のグループを考えてみると、僕たちも同じ線上でこの精神を受け継いでいるように思えた。

 

「みんな音楽学校の先生なんかをしはじめてたから、切符は必死で売れば売れたんだよね。だから東京文化の小ホールは満員でね、補助席出したんだよ。勝手にパイプ椅子持って来てね、並べたから怒られて怒られて…当時は今よりもっと怒られたよ、消防法違反だとか言ってね。始末書とられてさ。二回目か三回目は時間オーバーしちゃって。それで敷居が高くなっちゃって…でも小ホールがいっぱいになったのは覚えている。そういう時代だったんだよ。みんな若いから、売るのもとっても一生懸命売ったわけね。芸大の練習室一つずつ回って「これいりませんか?」て売っていたのもいた。演奏家も錚々たる人物たちだし。」

 

 《翔ぶ》は作詩が服部芳樹、3人の歌手とフルート2人、クラリネット、トランペット、打楽器3人、コントラバスで構成されている。末吉先生が当時書いた曲目解説にはこのような言葉がある。

 

「(前略)—私は、いつかは新しい語りものの様式に至りたいという憧れをもつていて、この曲は、そんな将来への夢への一つの布石になればと願いつつ作曲しました。この曲の首尾はともかく、私は、次に何をなすべきかがかすかにわかつてきたような気がしています。—(後略)」

 

 末吉先生のドラマティックな音楽の流れは、「新しい語りもの」という精神から来ているように思えた。《翔ぶ》の歌詞は砂糖菓子のような甘さを伴う。「行き交う光は地上の流れ星」「ツイストを踊らない?」「シャワーをみてよ つめたいの」などなど。末吉先生は少し照れながらこの詩の言葉を僕に教えてくれた。「この詩の言葉は僕の趣味ではないんだ。」という注を添えて。末吉先生はあくまでそれらを冷静に見渡し、言葉の奥底にある官能に達しようとする。それは音楽でこそなし得る境地だ。

 

 

「長いスランプが吹っ切れた勢いでパリ留学が決まりました。そこで師事したモーリス・オハナが僕のフルートの使い方とか打楽器の使い方にすごく共感してくれて、2人の考えているところはよく似ているっていう風に持ち上げてくれたものだから、僕もすっかり勇気づけられていきました。」

 

 

☆ オペラ《男達》               

 そんな末吉先生に大作の依頼が舞い込む。オペラ《男達》である。好色一代女を現代的な解釈で遠藤啄郎が台本化し、末吉先生が作曲した。会場は国立劇場(小劇場、三宅坂)主役に佐藤美子、装置には妹尾河童などの顔ぶれが並ぶ。当時の公演チラシは中心に「蛾」をあしらった仄暗い美しさをたたえた妖艶なものだ。

 

「当時、オペラというのは過去のものだし欧米の文化の大劇場趣味と思っていました。僕は創作家としても日本人としてもそこにコミットする場所は無いと思っていたんですよ。その中で自分の曲を作るという事はあり得ないと思っていました。だからオペラと言われた時も通常のプロセニアム形式じゃない方が良かった。そのためにも国立劇場は良かったのです。伝統的な劇場でもあり、太鼓や笛を使ったりもするから。」

 

《男達》の楽器編成はフルートが3人、打楽器が5人、コントラバスとチェロに、ピアノとチェレスタを各一人。そして歌い手が入る特殊なものだ。

 

「むしろ、通常の伝統的なオーケストラから遠ざかろうとしているわけですよね。《男達》の中で通常の和声はあまり存在していません。ホモフォニックになる場合はあるけれど、多くは打楽器のリズムと、声と、若干のアクセントとしての笛があるだけで。どっちかっていうと、伝統芸能のなかでも能に近いような感じです。

 

 僕は、自分がシュトラウスマーラーシェーンベルクの先に立つことが出来るとは夢にも思わなかったんです。それは不可能な事だという思いがありました。更にその頃日本人が本当にバッハを分かるかというような疑問をずっと感じていました。それは非西ヨーロッパの文化への興味に繋がって、バルトークを研究することのきっかけにもなりました。だから僕が声や打楽器、笛に近づいていったのは、人類としての根源的な美の体験、伝統的な文化の奥深くに残っているものはそういう音で、それは自分の中でくみ出せる事が出来るだろうと考えていたからでした。ただそこに向かう時には西ヨーロッパの音楽史からは離れるわけです。ピアノ弾くのが大好きな自分や歌の伴奏をたくさんする自分と創作する自分とは当時はつながっていなかったわけです。」

 

☆ 「座付き」作曲家として           

 その後も創作の勢いは止まらない。常に末吉作品の初演パンフレットに名前を連ねる瀬山詠子氏の委嘱により作曲した《おかる勘平》は大きな反響を巻き起こした。《マリンバのためのミラージュ》も安倍圭子氏の委嘱無くして作品の完成はあり得なかったと言う。

 

「《ミラージュ》は自然に、自分の和声的な体験、西洋のクラシックの体験、そういうものと伝統的なものの融合が出来たと感じています。もう僕は既に日本ということにだけこだわっていなくて、打楽器の持っている普遍的なリズム性が分かるようになっていました。ロシア人やスペイン人のリズムの外見や様式は違うけれど、根本で普遍性が保証されている事もよくわかったわけで。だから様式に囚われなくなり、かなりイマジネールなものを重ねる事が出来るようになりました。

 

 今でも、座付き作者としての意識が強いです。常に演奏家のために書いているんですよ。演奏家からの注文が音符を書く動機になるんです。それが僕の作曲家としての基本姿勢です。何のために書くかと聞かれれば、僕は演奏家のために書きます。作品というのは演奏家のための素材です。音楽は演奏によって音楽であって、作品として楽譜に書いているのは素材に過ぎない。あるいは食べられていない料理みたいなもので。作品は演奏によって成就すると思うんですよ。」

 

 

☆ 大切なこと                   

 改めて、末吉先生と音楽を共に出来る事の幸せを実感した。徹底的に切り詰められた独自の表現に達するための鍛錬。自身のアイデンティティを肯定し、内奥から出てくる自分自身の心からの音楽を末吉先生は紡ぎ続けているのだ。最後に先生に伺った。

 

「音楽にとって大切な事とはなんでしょうか?」

 

「人間の音楽。音と人間。僕には、人間のいないところで音を考えられない。音を抽象化して考えるのが作曲家だからいろんなことをやるけれどそれは一つの方法論。でも誰もいないところで音楽はあり得ない。音楽家とは種々の感情の代弁者だと思っているから。

 それと個人的な体験だけれど…よく学校で遅くまで残って仕事をしていた頃、誰もいなくなったあとのステージの上に一人でいるの大好きだったのね。自分が音楽家に還るというか。管理者じゃない、経営者じゃない、音楽家としての空間が自分で感じられてね。ステージを見渡すと楽器が一杯並んでいて、こういうのをみると、もの凄い本能が搔き立てられる。やりたいことは山のようにある。学生たちがよくかけない、打楽器の使い方が分からないと相談してきたけれど、

「回りを見渡して座りなさいよ、楽器と並んで。そうしたらやりたいことが感じられるよ。」と思う。

 たくさんの楽器の回りをうろうろしているだけで、ああ俺、一生、かけるなあ。って。」

 

                            文 責/會 田 瑞 樹